大判例

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名古屋高等裁判所 昭和25年(う)1091号 判決

被告人

安井遺腹事

安遺腹

主文

原判決中無罪の部分を破棄する。

被告人を罰金五千円に処する。

右罰金を完納することができないときは金二百円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

原審検察官子原一夫の控訴趣意について。

原判決が所論のように証拠によつて被告人の外国人登録令違反の事実を認定し、之に所論のような期待可能性理論を適用して被告人に無罪の言渡をしたことは記録上明らかなところである。而して外国人登録令は所論のような性格を帯びた法令であることは明らかではあるが、之に所論のように期待可能性の理論を適用することは許されないものとは解し得なく原審で取調べられた証拠によれば、被告人は日本において生れ、成長したものであるが今次大戦中南方に渡航し終戦後その本籍地に送還せられ、その際復員者であるという身分証明書を貰つたが姉を頼つて所謂三十八度線を通過して北鮮に入つたところ保安隊員等に発見せられて右の身分証明書を取上げられた。そして被告人は朝鮮の生活には馴れていなかつたので親兄弟のいる日本へ帰りたい気持を押えることができなくなつて遂に意を決して多大の危険を冒して南鮮に脱出し、釜山の叔父の許へ辿りつき海外同胞引揚事務所を訪れ日本への渡航許可を願出たけれども、被告人は復員証明書を持つておらず又朝鮮人は絶対に日本へ渡航することはできないとて、その許可が得られなかつたので窮余の一策として一般日本人引揚者を装つて日本へ密入国した事実を認めることができるけれども原判決は記録上明らかなように右の事実の外に尚一旦三十八度線を不法に突破して北鮮より南鮮に入つた身の其の危険は身辺に迫つており、北鮮から南鮮に入つたものが保安隊員に射殺されたことなどを被告人が聞き及んでいた事実を挙げているところ、原審で取調べられた証拠によれば北鮮から南鮮に向けて三十八度線を突破する際に北鮮側保安隊員に之を発見せられるときはそのような生命の危険のあることを認めることができるけれども、一旦無事に南鮮に脱出した後において左様な生命の危険が被告人の身辺に迫つていた事実を認めることはできないので、以上のような事情の下において被告人が一日も早く日本に渡航したいと考えたことは人情上至極尤なことであつて、何人も之をとがめだてすることはできないけれども、原判決が謳つているように、被告人を待つものは銃殺か或は異郷の空における流浪生活の外なく、かような生命の危険、生活の脅威を犯してまでも被告人に異郷の朝鮮に留まることを要求し得るであろうか、というように事をきめてかかることは困難であつて、右説示のように南鮮に無事脱出後の被告人には当時生命の危険が迫つていたわけでもなく、又釜山には叔父がいるので直ちに異郷の朝鮮において流浪生活に入るの外ないような生活の脅威に直面したものとも認められないから原判決のように輙く被告人にはその当時適法行為の期待可能性がなかつたものと論ずることはできないものといわなければならない。然るに本件につき被告人に右説示のように適法行為の期待可能性がなく従つてその責任が阻却せられたものとして外国人登録令違反の点につき刑事訴訟法第三百三十六條によつて被告人に無罪の言渡をした判決はその点につき法令の適用に誤があつてその誤が判決に影響を及ぼすことが明らかであるので、右無罪の部分中刑事訴訟法第三百八十條、第三百九十七條によつて破棄を免れなく結局本件控訴はその理由あるに帰着し、且つ本件は当審において直ちに判決をするに適するものと認められるので刑事訴訟法第四百條但書によつて更に判決をする。

(検事子原一夫の控訴趣意)

原審は本件公訴事実中窃盜の点については有罪判決をなし、外国人登録令違反の点については無罪の言渡をなしたが、右外国人登録令違反の罪につきなされた原判決には理由不備並びに判断遺脱の違法がある外、刑事責任阻却事由の判断を誤り不法に刑罰法令を適用せざりし違法あり、その違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから破棄さるべきものと思料する。即ち

第一点

原判決には理由不備並に判断遺脱の違法がある。

(イ)  原審は「被告人が朝鮮に本籍を有する外国人であるが、法定の除外事由がないのに拘らず昭和二十二年十二月初旬頃朝鮮釜山港より満州開拓移民団員を装い船名不詳の引揚船に乗船して同港を出帆し、その頃福岡縣博多港に上陸して本邦に入つた」との公訴事実を適法の証拠により認定し、その違法行為たることを認めたのであるが「被告人以外の何人を被告人の立場に於いても恐らく被告人と同様な行為をしたではなかろうか、被告人が前記の如き方法によつて本邦に入国したことは被告人としては真に已むを得なかつたものであると認めてやらねばならない。換言すれば被告人にはその当時適法行為の期待可能性がなかつたのであるから、右行為につき被告人の責任は阻却されるものである」として所謂期待可能性理論を適用し無罪の言渡をしたのである。

然し乍ら本件の如き事案に関する限りかような無罪理由は所謂期待可能性理論の濫用であり、之を正当付ける何等の理論的根拠もない許りか原審の如き見解は日本人のみならず、非日本人の本邦入出国の許可権が連合国最高司令官唯一人が之を専権的に掌握し、我国の政府その他如何なる機関と雖も之に関しては認容権限もないという占領下の厳粛な事実を卒直に肯定する立場からすれば、外国人登録制度の本義を沒却した謬見といわざるを得ない。即ち占領下の我国としては政府は日本人のみならず、非日本人に対しても自主的に入出国を許可することは出来ず之等の権限は挙げて最高司令官一人にあつて同司令官の特段の許可なくして不法に入出国した者は占領目的に有害な行為をした者として指令違反に該当するがわが裁判権の及ぶ者はわが方に於て之を処罰しなければならないこととなつているのである。而してその内単純な不法入国者のみはポツタム勅令である本令を適用し、その他(不法出国、日本人の不法入国及び本令施行前の日本人、非日本人の不法入国)は勅令第三百十一号第四條を以て問擬される訳である。

右の如く入国を許可するや否やは占領行政に属し、その最高機関たる最高司令官の専権に係ることを考えるならば、原審が「それでも尚最高司令官の承認を得よ、然らずんば入国を許さずということは余りにも酷ではあるまいか」とか「被告人が前記の方法によつて本邦に入国したことは真に已むを得なかつたことであると認めてやらなければならぬ」などと公式に論評するが如きことは不当といわざるを得ない。

本件の如く最高司令官の指令に基いて外国人の入国を厳重に規整する法的秩序殊に今尚入国の許可が同司令官に専属する登録制度の侵犯事件に於て被告人の個人的事情を強調するの余り、情状論の域を越えて之を期待可能性問題に迄飛躍させ刑事責任の阻却を論ずる原判決には客観性と法律的理由付けの合理性の認むべきものがない。又実際問題としても原審の如き責任阻却論は密入国者自身の述べる入国動機の如何に支配される危険に陥り易いばかりでなく占領行政に属する入国許可制度の基盤を事実上揺り動かすものでもあつて極めて不当である。

(ロ)  そもそも現行刑法の解釈として刑事責任の論定には行為事実を基礎として、それが罪となるべき法定事実を充足しているか否か及び法律上違法と目すべきや否やを標準として決せらるべきものであつて、一定の違法事実において、その罪責を否定するについても刑法に原由する場合に限定されることは所謂罪刑法定主義の反面からしても明かであり、故らに故意犯につき超法規的に刑事責任を排除することは許されないものと解するのである。然るに原審は本件につき適法行為の期待可能性の欠如が刑事責任を阻却するものとしているが、之につき何等法的な根拠を説示していないのであつて、原判決には理由不備又は判断の遺脱があり、刑罰法令を正当に適用したものとは為し難いのである。

第二点

次に原判決は責任阻却事由の判断を誤り、不法に刑罰法令を適用せざりし違法がある。

本件に於ては期待可能性についての解釈判断とその適用に関し果して被告人に不法入国をせざることを期待することが一般社会通念に照し不能であると論断し得るか否かに先ず問題が存する。極めて純理的な立場に於て本件を眺める場合、被告人が朝鮮に到着してから本邦に向け釜山港を出発する迄の間の一切の行動と境涯及び身辺の危険等について原審が認定した事実はすべて之れ被告人の供述のみによつて之をその儘客観的事実として認めたに過ぎず、その認定は著しい飛躍があつて所謂期待可能性問題とか刑事責任阻却論を持込むに適する程の合理的客観的な根拠があるものではない。

かような寧ろ情状論として考慮されて然るべきような事情を確定的事実と看做し之を前提として一般社会通念乃至條理を論じようとする立場はそれ自体既に行過ぎといわねばならぬ。畢竟原判決は刑事責任阻却事由の判断を誤り期待可能性理論を不当に解釈適用して、罪となるべき事実に不法に刑罰法令を適用せざりし違法あるものと思料する。

以上の理由に基き原判決は破棄さるべきものとして控訴申立をなした次第である。

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